夫がアスペルガーかもと思ってから1年が過ぎた今 ①
昨年、「ひょっとしたら夫はアスペルガーかも」と思い始め、1年が経った。
この1年を振り返ってみようと思う。
- 夫はアスペルガーではないかと従姉妹から言われる。
- 仕事が4ヶ月切れても何の行動も移さない。(生活に余裕はない)
- パチンコ代を私の職場に取りに来る。
- 周りから離婚をするように勧められる。
- 自宅の名義を私に変更するように勧められる。
離婚を勧められた私は
思ってもいなかったアドバイスに私は戸惑った。
夫と離婚して、私の稼ぎは自分の老後に充てるようにということだ。
私の老後のために自宅を私の名義にしておく。
その自宅に住むのは私だけで、夫はそこにはいないということだ。
- 夫婦共に国民年金しかなく、それも満額ではない。
- 夫婦で死ぬまで働く約束であった。
- 私は乳がんの手術を3度している。
- 夫が私を守ってくれないことは皆が承知している。
なぜそんな夫を守ろうとするのかと非難される。
ここで私が結論をださなければ私の味方もなくしてしまうことになる。
私には見えていなかったものが、私の周りの人には見えていたのだ。
私はすぐに答えは出せなかった。
ただ、もう誰にも相談できないなと思った。
夫に離婚の話も言ってみた
「いいよ」という。
どうやって生活していくのかは考えていないし、考えられないのだと思う。
私も、夫の生きて行く道を探してあげなければと思ってしまう。
家の名義の件も「いいよ」の一言だった。
考えた末の答えではなく、何も考えていないのだなと思った。
先の展開が理解できないのだろう。
夫だけではない。私も夫について行けば大丈夫と思いこんでおり、先のことを考えていなかったことも事実だ。
それが周りのものにははっきりと見えており、私だけでも泥船から降りるようにと手を差し伸べてくれているのだ。
友人のプランは、とにかく離婚する。夫が生活できなくなれば、生活保護の申請をすればいいという。
別の友人からは「なんで別れた後の旦那の心配するの?」と言われる。
私に離婚する覚悟がまだないのだ。
夫が仕事を始めた
その後、夫に仕事の依頼が入り、また何もなかったかのように日々が過ぎた。
仕事は入るが、経費を引くと残らない。
本人は仕事をするだけで満足なのだろう。
生活費など、私から出ていることなどいくら言っても理解できていない。
このままでは、また仕事が切れたときに同じ愚痴を私が言い始めるのは分かっている。
その時、相談できる人はもういないのも分かっている。
夫が交通事故を起こした
「事故した。警察が来てくれと言っている」と夫から電話が入った。
現場に着くと20代の警察官が私に尋ねる。
どうやら夫は認知症ではないかと疑われているようで、私が呼ばれたのだ。
話がかみ合わなかったようだ。
「認知症の検査はしていないので絶対とは言えませんが、今に始まったわけではなく、もともとこういう人です」と私は答えた。
認知症でもおかしくない年齢になっているのだと思った。
結局、レッカーや保険関係、レンタカーなどの手配はすべて私がすることになる。
いままですべて私がやってきてしまったからだ。
コミュニケーションに問題がある夫との間に入って相手に対して失礼のないように通訳的なこともすべて私がしてきたのだ。
しかし、今回は現場検証や警察、検察、免停の講習会など、私が変わることのできない場所には本人が行くことになる。当然ではあるが。
自分に関わることには積極的だ。ただし、相手にどういう印象を与えたかは不明。
家と土地の名義を変更した
夫が事故を起こしたことは周知の事実だ。
その金銭的な後始末を私がしたことも周りは知っている。
一番気にしていないのは当の本人だ。
家の名義変更の件を提案されて1年が経った。
車の修理代や罰金などで大きな出費をしたばかりだったが、名義変更をすることにした。
何も変わらず1年を過ごしたと思われたくなかったからだ。
ここで動かないと私も変わることができない。
費用を抑えるために司法書士にお願いせずに自分で書類を作り、法務局に申請した。
2人の友人から連絡が入った。
「家の件はどうなっていますか?」
私は「やっと法務局に申請が終わったところです」と答えることができた。
家と土地といっても土砂災害が起こった場所で、売れないかも知れない。
私の名義になったところで、老後の足しにはならないことも分かっている。
厚生年金も退職金もない夫と結婚生活を送って唯一の特典が「結婚生活を20年継続していれば配偶者への贈与税が免除される」ということだ。
ただ、夫の財産が全くなくなったわけで、離婚すれば、夫は助かるのかも知れない。
「いつ引っ越せばいい?」と聞いてくる。
夫の中では、私が引っ越し先を探して住むところを準備してくれると思っているのだろうか。
まだ離婚の決断はできていない。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫とも暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。