夫がアスペルガーかもと思ってから1年が過ぎた今 ②
夫が仕事を辞めた
夫は職人だった。
コミュニケーション能力が欠けている夫には向いていた仕事であった。ただ、もくもくと仕事をすればよかった。従業員としてではなく、請け負いで働いていた。
45年間でどれだけ工務店を変わっただろう。
ただ取引先の工務店が変わっただけの話で、仕事の内容は変わらない。だからずっと職人として仕事を続けることができていた。
出典:家族のためのアスペルガー症候群とのつきあい方
しかし、20年くらい前からただ家を建てればいいという時代ではなくなり、お客様の要望を理解できなかったり、職人同士のつきあいもできない夫に仲間がいなくなった。
1人で請け負っていた夫は工期短縮についていけず、ついに仕事を辞めることになった。
アルバイト・パートを探した
夫は当然採用してもらえると思っている。
私はまず無理だと思っていた。
それでもアルバイト・パートに出ようと思ってくれたことは評価をした。
3~4か所面接にいったが、みごとに不採用だ。
私が面接官でも雇わない。
「二人で死ぬまで働こう」で何とか老後がやっていけそうな気がしていたが、もう夫の収入はゼロになるということだ。
ついに私の仕事を手伝うことにした。
いままですべてのことにおいて「決断」ができず、結果的に私が決断をしてきた。
今回ばかりはズルズルと引き込みたくはなかったので、夫の口から言ってもらうことにした。
「頑張って働くから仕事をさせてください」と夫は言った。
私は期待してしまった。
ところが何ひとつできない。
私からみたらすこぶる簡単な仕事しか与えていない。
いちいち手取り足取り、ずっと見ていなければならない。
私一人でやるほうがよっぽど早くできる。
これじゃ、人様に雇ってもらうなど到底無理である。
結果、やはり私が背負いこむことになってしまった。
66歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫とも暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
ポチっと押していただけると励みになります。
夫がアスペルガーかもと思ってから1年が過ぎた今 ①
昨年、「ひょっとしたら夫はアスペルガーかも」と思い始め、1年が経った。
この1年を振り返ってみようと思う。
- 夫はアスペルガーではないかと従姉妹から言われる。
- 仕事が4ヶ月切れても何の行動も移さない。(生活に余裕はない)
- パチンコ代を私の職場に取りに来る。
- 周りから離婚をするように勧められる。
- 自宅の名義を私に変更するように勧められる。
離婚を勧められた私は
思ってもいなかったアドバイスに私は戸惑った。
夫と離婚して、私の稼ぎは自分の老後に充てるようにということだ。
私の老後のために自宅を私の名義にしておく。
その自宅に住むのは私だけで、夫はそこにはいないということだ。
- 夫婦共に国民年金しかなく、それも満額ではない。
- 夫婦で死ぬまで働く約束であった。
- 私は乳がんの手術を3度している。
- 夫が私を守ってくれないことは皆が承知している。
なぜそんな夫を守ろうとするのかと非難される。
ここで私が結論をださなければ私の味方もなくしてしまうことになる。
私には見えていなかったものが、私の周りの人には見えていたのだ。
私はすぐに答えは出せなかった。
ただ、もう誰にも相談できないなと思った。
夫に離婚の話も言ってみた
「いいよ」という。
どうやって生活していくのかは考えていないし、考えられないのだと思う。
私も、夫の生きて行く道を探してあげなければと思ってしまう。
家の名義の件も「いいよ」の一言だった。
考えた末の答えではなく、何も考えていないのだなと思った。
先の展開が理解できないのだろう。
夫だけではない。私も夫について行けば大丈夫と思いこんでおり、先のことを考えていなかったことも事実だ。
それが周りのものにははっきりと見えており、私だけでも泥船から降りるようにと手を差し伸べてくれているのだ。
友人のプランは、とにかく離婚する。夫が生活できなくなれば、生活保護の申請をすればいいという。
別の友人からは「なんで別れた後の旦那の心配するの?」と言われる。
私に離婚する覚悟がまだないのだ。
夫が仕事を始めた
その後、夫に仕事の依頼が入り、また何もなかったかのように日々が過ぎた。
仕事は入るが、経費を引くと残らない。
本人は仕事をするだけで満足なのだろう。
生活費など、私から出ていることなどいくら言っても理解できていない。
このままでは、また仕事が切れたときに同じ愚痴を私が言い始めるのは分かっている。
その時、相談できる人はもういないのも分かっている。
夫が交通事故を起こした
「事故した。警察が来てくれと言っている」と夫から電話が入った。
現場に着くと20代の警察官が私に尋ねる。
どうやら夫は認知症ではないかと疑われているようで、私が呼ばれたのだ。
話がかみ合わなかったようだ。
「認知症の検査はしていないので絶対とは言えませんが、今に始まったわけではなく、もともとこういう人です」と私は答えた。
認知症でもおかしくない年齢になっているのだと思った。
結局、レッカーや保険関係、レンタカーなどの手配はすべて私がすることになる。
いままですべて私がやってきてしまったからだ。
コミュニケーションに問題がある夫との間に入って相手に対して失礼のないように通訳的なこともすべて私がしてきたのだ。
しかし、今回は現場検証や警察、検察、免停の講習会など、私が変わることのできない場所には本人が行くことになる。当然ではあるが。
自分に関わることには積極的だ。ただし、相手にどういう印象を与えたかは不明。
家と土地の名義を変更した
夫が事故を起こしたことは周知の事実だ。
その金銭的な後始末を私がしたことも周りは知っている。
一番気にしていないのは当の本人だ。
家の名義変更の件を提案されて1年が経った。
車の修理代や罰金などで大きな出費をしたばかりだったが、名義変更をすることにした。
何も変わらず1年を過ごしたと思われたくなかったからだ。
ここで動かないと私も変わることができない。
費用を抑えるために司法書士にお願いせずに自分で書類を作り、法務局に申請した。
2人の友人から連絡が入った。
「家の件はどうなっていますか?」
私は「やっと法務局に申請が終わったところです」と答えることができた。
家と土地といっても土砂災害が起こった場所で、売れないかも知れない。
私の名義になったところで、老後の足しにはならないことも分かっている。
厚生年金も退職金もない夫と結婚生活を送って唯一の特典が「結婚生活を20年継続していれば配偶者への贈与税が免除される」ということだ。
ただ、夫の財産が全くなくなったわけで、離婚すれば、夫は助かるのかも知れない。
「いつ引っ越せばいい?」と聞いてくる。
夫の中では、私が引っ越し先を探して住むところを準備してくれると思っているのだろうか。
まだ離婚の決断はできていない。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫とも暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
「あなたはアスペルガーだと思うの」と夫に告知をしたら
知り合って44年が過ぎた今、「夫はアスペルガーではないか」というところに行き当たった。
変わった夫婦という自覚はあったものの、今回、私の体調がおかしくなった。
夫婦ともにすでに65歳である。
身内から「アスペルガー」という言葉が出てきた。
初めて「アスペルガー」について情報を集めてみた。アスペルガーの夫を持つ妻は、情緒的な相互関係を築くことが難しく、心的ストレスから不安障害や抑うつ状態、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの心身症状が起きている状態をカサンドラと言われることを知った。
まさに今の私がそうだと思った。
今回は、「あなたはアスペルガーだと思うの」と夫に告知したことを書いてみる。
泥船に乗っている夫婦、沈む前に一人で逃げて!
周りからはそう見えていたようだ。
- 自分を守るべき
- 離婚しなさい
- もう、捨ててもいいんじゃないの?
私の身内・友人たちから一斉に出たのは「離婚」という言葉だった。
私自身考えてもいなかった忠告だった。
沈みかけている船の中で私一人が一生懸命水をかき出しているように見えるらしい。
私はといえば、夫婦で助かりたいとこの期に及んでもまだ思っている。
「どこの旦那もいっしょよ」とか言われて「誰も分かってくれない」と悩む人が多いカサンドラであるが、今回は身内からである。
身内は私のためを思って、私を助けようとして言ってくれたのだ。
だから今回は何らかの行動を私が取らないと、身内・友人たちから私が捨てられる危機感を覚えた。
私の従姉妹はアスペルガーの子どもを育てた。
今回は従姉妹から「あんたの旦那はアスペルガーよ」と指摘されてから、私が一歩を踏み出したわけだ。
「本人に告知したら変わる?」と私
「言っても変わらないと思うけど、言い続けると少しは違うかも」と言われた。
私は夫に告知することを決めた。
旦那様に告知することを決めた理由は
現状が続くと経済的に破綻をきたす
貯金なし、国民年金のみ(70歳まで繰下げ中)。個人事業主同士の夫婦ともに、死ぬまで働くことでなんとかなると思っていたのに、夫は4ヶ月仕事が切れても動く気配なし。私の乳がんが再発すればアウト。(すでに3度の手術をしている)
私の体調がすぐれないこと
夕方自宅に戻ろうとすると気分が悪くなる。夫が私の職場にくると気分が悪くなりだした。(この経験は今回が初めて)
やる気がでない。
私の仕事に影響がでるようになれば即アウトである。
夫への対応を変えることを伝えるため
いままでは、オブラートに包んで話をしていたが、夫がアスペルガーとなれば、今までの私の話は全く理解できていなかったことになる。
直球で話をすることと、完璧に主導権を私が握らなければならないこと。
主導権は夫にあると思って44年間を過ごしてきた私にとって、それができない人だと気づいたこと。65歳になってこの歳で夫を一人で背負っていかなければならないと気づいたことが、今回の体調に不調をきたした理由だと思った。
夫にこれからは対応を変えることをちゃんと伝えておきたい。
伝えたことによって変化が出て来ることにかすかな期待をもちながら。
周りからすべての人の口から出た言葉が離婚だったこと
私よりも周りの人たちが強い危機感を持っていることだ。
私は夫との生活で茹でガエル状態になっている。夫だけでなく私も本気で変えていかなくてはと思ったからだ。
夫を仕事場に呼んで話をした
電話をして話があるから来て欲しいと言う。
対面では座らずに横に座る
夫のようなタイプは、私の顔や表情が気になって話が頭に入らないらしい。
感情的にならず、ゆっくりと話す。
私の場合、話があちこちに飛んでしまうことが多い。夫には理解できないことを想定して、
・あいまいな表現をしない
・答えを急がせない
・感情的にならない
夫に話した内容は
あなたはアスペルガーかも知れない。
「あなたはアスペルガーという知的障害のない自閉症かも」と言うと、「3歳までしゃべらなかったから周りから心配されたらしい」と答えた。
あなたの植木鉢には最初からタネがなかった。
あなたが悪いんじゃないの。あなたの植木鉢にはタネが最初からなかったのよ。それを私は知らないから毎日毎日水をやり、時には肥料も与えたのに芽がでてこない。私はどうしてどうして?って悩み続けた結果、いまうつになりそうなのよ。
おそらく、私がずっといろいろ言ってきたことも、あなたには全く理解できていなかったのね。
私は日本語で話したつもりだけど、あなたには意味のわからない外国語に聞こえてたんだと思うのよ。
これからは、ゆっくりとあなたが理解できるように話をするから。
残ったのは私だけ
夫に友達はいない。身内ですら付き合いがない。
なぜそうなったのか。
あなたには自覚がないだろうけど、あなたにいろいろと傷つけられたりして、みんな去っていったのよ。残ったのは私だけ。
いまその私があなたのことで体調不良になっている。それをカサンドラというらしいの。
今回私も初めて知ったんだけど。
それを見た私の身内や友人が離婚するように言ってきた。
本当はそれだけ深刻なのよ。
理解できてはいないだろうけど
一時間程度で話をしたのは私だけ、相槌もなければ質問もない。
もちろん、最初から何も期待はしていないし、これで会話になるのなら夫は普通の枠内に入っている。
無表情、まばたきが増える(これは私が真剣に話しているときに多い)
子どもが母親から叱られているときのような表情になる。
一時間の間に、しゃべった言葉は2つ
「眠い」と「腹減った」の2つ。
いまは大切な話をしているから、普通はその話に対して何かを発言するもの。
私だから許すけれども、これが他人だったり仕事関係だったらアウトになるのよ。
おわりに
今回、夫に「アスペルガーを告知」したわけだが、言って良かったと思っている。
本人の自覚のないままに周りが困っていることが多々あるということは理解できたようだ。
ただ、今は理解できているが、それで行動が変わるとは私は思っていない。
なぜなら、夫は悪気はまったくないのだから。どこが悪かったのかもわからないから。
告知して夫が怒ったり機嫌が悪くなったのなら、まだ脈はあるけど、まったく反応がなかったということで、やはりアスペルガーだなと確信した。
ただ、それが確信できただけでも、私のこれからの対応を考えていくことができる。
そして、今後、すべてのことを私が決断していかなければならないことも確信することになった。
私が覚悟して夫を背負っていくか、それとも夫を背中から下ろして楽になるほうを選ぶか。
すぐに決断はできない。
なぜなら、周囲にはわかっていたことでも、私たち夫婦にとっては、一歩先が断崖絶壁だとわかっていないんだから。
しかし、ここで立ち止まったら今までと何も変わらない。
今回は何か私からアクションを起こさないと。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫も暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
カサンドラになった私にも原因があった
私は65歳で初めて「カサンドラ」という言葉に出会った。
夫のことをちょっと変と思いつつも44年が経過した。
最近「夫はアスペルガーでは?」と思い始め、私の体調不良が続いたころに対比で出てきた「カサンドラ」という言葉にであった。
「確かに、確かに。この体調不良は夫のせいだ」と確信した。
アスペルガーだったのなら、いままでの44年間がすべて納得がいき、いままでの話し方では理解してもらえていなかったことを踏まえて、わかりやすい言い方で夫と話をする時間を持った。
2週間くらい経ったころ、ふと思い出した。もともと私が変わった性格だったことを。私も変わらなくてはと。
- カサンドラなりやすい人とは
- 私の育った環境
- 旦那様の育った環境
- そんな正反対の環境で育った二人が結婚した。
- 両極端な環境で育った二人はどちらが病んでもおかしくない
- 夫はアスペルガーで私はカサンドラになっていた
- 夫はアスペルガー。育った環境ではなかった
- 気づかずに過ごしたこの44年を取り戻すために
カサンドラなりやすい人とは
アスペルガーをパートナーに持つ人は相手との性格の不一致や価値観の違いと考えてしまい自分自身を追い込んでしまう。
完璧主義、白黒はっきりさせないと気が済まない、生真面目、頑固などの性格の人がなりやすい。
「こうあるべき」と思う私と、「察すること」が苦手な夫との間でストレスになっていたのだ。
まさに、私は「こうあるべき」と「察すること」と「従うこと」でで65年間生きてきた気がする。
私はカサンドラになりやすい人の典型だと思った。
私の育った環境
私の育った家は、旧家と呼ばれ家長(父)がすべてを仕切っていた。
それに従うことに何の抵抗もなかったし、女は3歩下がって殿方の後ろを歩く。それがむしろ正しい女性の在り方だと思っていた。
そして、一を聞いたら十を考えて行動すること。
一言で相手が何を言いたいのか、何を必要としているのかを察して動くのが当たり前の中で育った。
だからズバッとはいわずオブラートに包んで会話をする。それが美徳である。それでも皆が理解できる中で育った。
言葉を額面通りには受け取らない、本音と建て前の中で育った。
「忖度」という言葉がここ何年か多く聞かれるようになったが、すでに50年前に私は「忖度村」で育ったと思っていた。
結婚も見合いで顔も見たこともない人とするのだと思っていたし、それが当たりだと思っていた。
- 誰からみてもいい人でなければならない。
- 間違っていることはしてはいけない。
- 目立ってはいけない。
- 自分の意見を言ってはいけない。
- しきたりを重んじる。
そこから外れると代々続いた立派な家に泥を塗ることになる。
旦那様の育った環境
とにかくはっきりと思ったことをズバッと言う。
他人のことは気にせず、思ったことを言い、個人個人が行動する。
その言動が人が傷つくなど誰も気にしないし、そのくらいのとこでは傷つきもしない。
結婚当時、私から見たときに、そこは異国であった。
そんな正反対の環境で育った二人が結婚した。
私は大人になり、家を出た。自由に行きたいと思ったからだ。
夫も育った地域に違和感を持ち県外に就職していた。
両極端な二人が結婚することになった。
私は、夫の実家や周りに対して戸惑った。
たまに帰省すると(帰省じたい迷惑がられる)
言葉(方言が強く言葉が理解できない)も風習もすべて大きく違う。オブラートに包んで発言する私の言葉は理解してもらえず、ズバズバ直球でくる言葉に戸惑った。
例えば結婚後も「もう少しいい人はいなかったのか。〇〇のところの△△ちゃんと結婚すればよかったのに」などと酒の肴にされる。
それを誰も止めない。「そうですね」と言い返すくらいの図太さがなければそこでは生きていけない。
私は「国際結婚」だと思うことにした。
その地域の中では夫が一番ものわかりがよく優しい人に見えた。
夫には強迫神経症という病気があった。
ここで育てば心が傷ついても当たり前だよなと私は思った。
一方、夫は私の実家や周りの人たちの「本音と建て前」があることを知らない。
場の空気も読めないから、失礼な言動を連発する。
しかし周りは私の夫だということで忖度し、面と向かって指摘することはない。
両極端な環境で育った二人はどちらが病んでもおかしくない
私は自分を出さずにいいなりになって育ってきた。(本音と建前の世界の中で)
私のほうが病んでいてもおかしくなかったなと思った。(しかし、病んでることにも気気づいていないのかも)
夫はアスペルガーで私はカサンドラになっていた
小さい頃の環境で「強迫神経症」になったと思った私は夫を支えることにした。
しかし、それはアスペルガーから来ていたのに気づいたのはごく最近である。
私の育った「男はこうあるべき、女はこうあるべき」の考え方が全くない夫である。
私が「これして、あれして」と指示を出していれば少しは変わっていたのかも知れない。
ところが私は夫が絶対君主ですべての指示を出すものだと思っている。
夫の動きやすいように支える。それが妻だと思っていた。
・出かけると言えば靴下を履かせ、ズボンも履かせる。
・出かける時は玄関外で見送り、車の音がしたら外まで迎えにでる。
・夫がホウキを持てば「そんなこと男の人が・・・」と私が取り上げる。
・夫が台所に立てば「そんなこと男の人が・・・」と私がやってしまう。
それが当たり前だと思っていた。
夫から見たらかつて経験がないだけに、嬉しかったようだ。
今から考えるとこれが大きな間違いである。
妻としての役目をやっていれば、夫が指示を出してくれる、家庭を引っ張って行ってくれると思っていた。(私の育った環境では)
ところが全く動く気配がなかった。
夫を引っ張っていくなどとんでもないことだと思っている私は
「夫が仕事が忙しいから私が代理で」という大義名分で私が動くようになった。
夫はアスペルガー。育った環境ではなかった
確かに、育った環境も影響はあるとは思う。
ただ、44年前、異国かと思った夫の生まれ育った地域も、時代の流れとともに違和感のないところまでになっているし、テレビやネットなどのお陰で、言葉も標準語に近くなり、他人のことも考えられるようになっている。44年間の間にひとつずつ階段を上ってきたなと思えるようになっていた。
ところが、地域や家族の中で一番人の心がわかると思っていた夫は44年前のままだ。いまでは一番人のことが思いやれない人になっている。(最初からその部分は欠落している)
育った環境だとばかり思っていた私はこの度そうではないことに気づいた。
私もカサンドラになりやすい人にぴったりと当てはまる性格である。
気づかずに過ごしたこの44年を取り戻すために
今回、夫がアスペルガーで私がカサンドラではないかと思ったときに
夫のせいで私が体調不良になっていると思えば納得がいった。
「カサンドラになりやすい人」の性格が私にドンピシャだったことで、ひょっとして私は、他人に知らず知らずのうちに迷惑をかけているのではないかと思い始めた。
自分をもう一度冷静に見直してみようと思う。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫とも暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
65歳で気づいた。夫はアスペルガーで私はカサンドラ
カサンドラとは、アスペルガーの特性の影響を受けて、パートナーが心が不調を起こすことである。
私はごく最近夫がアスペルガーではないかと気づいた。
もう少し早くアスペルガーと気づいていれば、夫との関係に工夫や対策をとれたであろう。
気が付くと、私が疲弊し、今までと何かが違う、心身ともに何か変だと思うようになっていた。
- 私はカサンドラ?気づいたきっかけは
- 「カサンドラ」になってしまう2つ要因とは
- 私たちの世代に「アスペルガーとカサンドラ」という言葉はなかった
- 気が付けば私はひとりぼっち
- 本音は「誰か助けて欲しい」だった。初めて出すSOS
私はカサンドラ?気づいたきっかけは
私はアスペルガーという言葉は知っていた。しかし、カサンドラという言葉は初めて聞いた言葉であった。
強迫神経症を持っている夫との44年間で、本人も大変なのだろうが、それを支える方も疲弊することは経験上わかっていた。
だから、私なりに工夫してきたつもりであった。
身内から出たアスペルガーという言葉
ごく最近のことである。アスペルガーの子どもを持つ従姉妹から私の夫はアスペルガーだという指摘を受けた。
「治らないのだから、あなたが考え方を変えるべき」だと。
私が気づくきっかけは身内→インターネット
アスペルガーを検索していたら、カサンドラという言葉が出てきた。
「今の私はこれだ」。44年間、私は周りから「鋼のメンタル」と言われてきたし、自分でもそう思っていた。物事を深く考えない性格が幸いしていたのだと思う。
ここ2~3週間の心身の不調
いままでは「何とかなる」「二人で頑張れば」と頑張ってきたつもりだ。
この体調の悪さは何だろうと考えた時、夫が「アスペルガー」ならば、私も「カサンドラ」だったのだと気づいた。
44年間、知らず知らずのうちに蓄え続けたストレスが満杯になったのだと思った。
「カサンドラ」になってしまう2つ要因とは
孤独感と孤立感である。
- 孤独感…夫婦で感情や責任を共有できない
- 孤立感…他人に話しても分かってもらえない
私の場合の孤独感と孤立感
孤独感
44年間の学習で、夫と共有するのは無理だとわかるようになった。
何も共有できなかったことで、孤独感はすでにない。
50代に入り、3度の乳がんと、災害で仕事場を自宅から別の場所に移したことで、
夫中心に考える生活を変えることにした。
「私が元気で仕事をしなければ、我が家の家計が回らない」という大義名分があったからだ。(世間に対して大義名分がなければ決断できない私)
必然的に別居生活になり、それで救われた部分は大きい。
孤立感
他人には共感してもらえない。「どこの旦那もいっしょよ」という話で終わってしまう。
身内は私たち夫婦を長年みているので「またか」という反応をする。はやく離婚をすればいいのにとアドバイスをされる。決断しない私は非難されているように聞こえてしまう。
私たちの世代に「アスペルガーとカサンドラ」という言葉はなかった
私にも、夫の愚痴が言える、話を共感できる友人が4人できた。
皆、子育てはすでに終わっていた。いまから夫婦でどう過ごしていくかという年齢だ。
「夫が帰宅する時間になると心臓がパクパクする」
「自分勝手な夫と離婚したい」
そんな話が多かった。私はと言えば、「変わった夫で困っている」とは思っていたが、離婚とか体調不良などは無縁だった。
すでにその頃、私も含め、皆「カサンドラ」だったに違いない。
「カサンドラ」という言葉も当時私たちは知らなかった。
共感してくれる人が一人もいなくなった私
いまから思えば、皆それぞれ友人の配偶者もアスペルガーだったのではないかと思える。当時は誰も気づいてはいなかったことだ。ただ、私の夫には「強迫神経症」と病名がついていたので、我が家だけが別格という扱いだった。
ところが、50代で友人たちの配偶者が次々と亡くなってしまった。(2年間のうちに)
友人たちから「旦那さんはどう?」と聞かれるので「相変わらずよ」というと、全員が「生きてくれているだけいいじゃない」と言う。
私は以降、彼女たちの前で夫の話はできなくなった。
亡くなった人には勝てない。全員想い出の中では「いい夫だった」になってしまい、つらかったことは消去されているからだ。
あれから7~8年経過した。
その間、私は乳がん手術3回、災害による仕事場の移転などで目の前の現実に追われる日々を過ごした。
気づけば私は「夫の件」に関して話せる人は誰一人いなくなっていた。
共感してもらえる人がいなくなった。
仕事上でも私が事業主であるため、かかわりを持つ人は皆一回り以上年下だ。
私が相談に乗る立場である。このコロナ禍で私が弱気にもなれば皆も不安を覚えるだろうと、強気を前面に押し出している。
気が付けば私はひとりぼっち
私は結婚以来、夫の性格と私の性格上、それまでの友人との連絡を絶ってきた。
夫が人と付き合わないのに、私だけが友人と会うなんてという理由からだ。
私が友人と会おうが、遊ぼうが好きにしてもよかったことが今ならわかる。
唯一、前述の「アスペルガー的な配偶者」を持つ人たちと友人関係になれた。
しかし、全員、50代で配偶者を亡くしてしまっている。もう夫の話は言えないが、それ以外の話はできる。
だが、コロナ禍で友人たちにも会うことができず、仕事もないゴールデンウイーク中、心身ともに絶不調になった。
このままではいけない。仕事が始まったら、また元気な私を前面にださなければならないのだから。(無理してでも)
本音は「誰か助けて欲しい」だった。初めて出すSOS
4人の配偶者を亡くした友人とは「夫の件」では共感してもらえなくなったが、友達としての付き合いは続いている。
「気づけばひとりぼっち」のままではいけない。
今日、LINEでSOSを出した。
私は「お願い、助けて」が言えない女である。他人からお願いされると120%のパワーで対処してきた。しかし、自分のこととなるとどうしても「お願い、助けて」が言えないのである。
「お願い、助けて」が可愛く言えたら私の人生はもっと違ったと思っている。
でも、「お願い、助けて」が言えないのなら、自力で頑張るとやってきた人生であった。
今回、人生初めての「お願い、助けて」のSOSを出した。
彼女は一回り年下だが、ちょっと変わった夫という認識でも知ってくれている。
何も知らない人に、一から説明する体力もない。
しかし彼女なら、私の背中を押してくれそうな気がした。
彼女は私が「お願い、助けて」の言えない女を理解している。
「お願いの言えない私の人生初です。お願い助けて」とLINEした。
「全力で応援します」と返事がきた。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに旦那様も暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
自ら進んでウツになるのだけは阻止しなければならない
私はかつて2度ほど、ウツの入口に入りかけたことがある。
今回、3度目の入口に立った。
夫の言動に振り回された結果である。
いまから考えるとカサンドラ症候群だったのだと思う。
今回も、過去の学習から乗り越えることができたと思っている。
まずは自分を最優先に考えることである。
1回目ウツの入口
夫が強迫神経症であることは分かっていた。しかし、「人がマンホールの中に入った」とか私にとっては現実味はないので、そこにストレスは感じてはいなかった。
30年前、夫の実家に帰省したときのことである。
500キロ離れたところを車で帰省する。
「今回は旅行をしよう」と夫が言ったのである。(初めてのことだ)
私も子供も嬉しくなった。途中で地図を買い、予定を立てていた。(予定をたてるように言ったのは夫)
帰省すると夫は毎日甥や姪と楽しく遊んでいる。我が子とも遊ばない夫が甥や姪と遊ぶ姿に少し腹がたった。しかし何日経っても実家を切り上げて旅行に出ようという気配もない。
「あぁ、このまま直行で自宅に帰るんだな」と思った私は珍しく怒って「私、先に帰るから駅まで送って」と言った。
「ちょっと待って」と言って夫は帰り支度を始めた。
500キロ、話すこともなく我が家へ帰宅した。(それでも途中寄り道して観光してくれることを期待していた)
今から思えば、「家族で旅行に行くのよね。そろそろ帰らない?」と言えば良かったのだと思う。
夫の頭の中からは「家族旅行」などすっぽりと抜けていたのだ。
なぜ私が怒ったのかも理解できていなかったのだと思う。
当時、夫がアスペルガー症候群だと理解できていたら対処の仕方も変えることができただろうと、いま思う。
帰宅してから、体調が悪くなった。なぜなのかわからない。
病院に行くと話もそこそこに「精神安定剤」を処方された。
1回は飲んだが、フワフワと雲の上にいるような感覚を覚えた。
初めてマッサージに行った。
マッサージ師さんから「自律神経が乱れてる」と言われ、なんか揉んでもらうより、その時の会話に癒された感じがした。
2回目のウツの入口
そのときの原因はよく覚えていないが、原因は夫である。
やはり1回目とおなじような体調不良になった。何か不調なのだ。
電話が掛かってきた。友人からの相談事だった。
「どうしたの?元気じゃなければあなたじゃない」と言われた。
「私だって悩みはあるし、元気じゃないときだってあるよ。あなたの相談なんかに乗ってる状況じゃない」と心の中だけで思った。
いまだったらわかる。
言えば良かったと。私の相談にも乗ってと。
そのころはもう「ウツ」という言葉も日常に出て来るような時代になっていた。
私はその時に思った。
「ウツ」になり、抜け出せない人もたくさんいる中、自らウツになるのだけは阻止しなければと。
夫は助けてはくれないと。
3回目のウツの入口
それが今回である。
トリガーを引いたのは、身内からの言葉だった。
夫の愚痴を世間話として話すとたいてい「どこの旦那もいっしょよ」で終わる。
もし本当に思っていたとしても、「お宅の旦那さん、おかしいよね」と面と向かってはいわないからである。
ところが、身内ははっきりと言ってくれる。それは私のためだからだ。
しかし、これは堪える。私の44年間を否定された気にもなる。
薄々は気づいていたが夫がアスペルガー症候群であるということだ。
私は「強迫神経症」は認めていたが、身内2人から指摘をされた。
私の考え方を変えるべきだという。
夫を変えることは無理だから、あなたが疲弊しないように、自分を中心に考えて生きていけという。
アスペルガー症候群だと言われるといままでの44年間が理解できるのだ。もっと早く知っていればといま思う。
ゴールデンウイーク中、体調は絶不調である。
以前、「ウツ」の入口に立ったときと同じ感覚である。
明日からまた仕事である。
今日のうちにリフレッシュしたい。
開いているマッサージ屋さんに予約を入れた。
お陰様で体は元気になった。
夕食はちょっと贅沢なテイクアウトにした。
自分のために贅沢をした。
トリガーを引く身内から連絡がきた。
テイクアウトを持ち帰っている時に弟から電話が入った。
「来たかぁ」と思った。
夫の言動で弟にはたくさんの迷惑をかけている。
いつも板挟みになっていた。
今回、身内3人から申し合わせたように連絡がきたことになる。
言ってくれることが的を射ているだけに、私には堪える言葉である。
しかし、今回は私のほうに覚悟ができていた。
夫の対応をいままでと変えることを決めたからだ。
診断はしてもらっていないが、「アスペルガー症候群」だということを告げた。
いままでの数々の言動もすべて納得がいく。
いつもになく真剣に話を聞いてくれた。
今回も「ウツの入口」で踏みとどまれたと思っている。
今回、ブログにアスペルガー症候群の旦那様のことを書き始めたのも、私のメンタルの維持と同じような状況にいる人と共有できればと思ったからだ。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに旦那様も暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
一瞬で納得した「お互いさまの概念の欠落」
夫と知り合って44年が過ぎた。
結婚前から「強迫神経症」であることは分かっていた。
ただ、現実ではありえないことに不安を持つので、寄り添いながらも私には理解できなかった。
結婚生活をしていくうちに、生活の中で「おかしいな」と思うことはたくさんあった。
ごく最近になって、ようやく「アスペルガー」ではないかと思うようになったのである。
いつまでたっても幼稚園児
私たち夫婦には孫が3人いる。
夫は孫が嫌いなわけではないが、会いたい、可愛いという感情はないようである。
それでも孫が遊びに来てくれたときには、話くらいはして欲しいと思う私である。
ときどき孫がとまどうようなことも言うので、「たんぽぽ組のじいちゃん」と私が命名した。
そのほうが孫が寄っていきやすかったからだ。
一番上の孫は幼稚園を卒園していまでは高校生である。
二番目の孫も中学生だ。
皆、成長しながら一段一段、確実に階段を登っている。
夫だけが幼稚園児のままのような気がした。
そしてついに三番目の孫は今年小学校に入学した。
孫の成長を見ながら、なぜいつまでも夫は同じ位置にいるのだろうか。
いつも下を向き、人と挨拶をされない人がご近所にいた。
孫と同居することになり、孫の世話をされるようになり、私たちにも挨拶どころではなく、世間話までされるようになった。
同居されて良かったなと思っている。(孫とともに成長された)
一方、我が家を見てみると、何の成長もない「たんぽぽ組のじいちゃん」がいる。
一瞬で納得できた「お互いさまの概念の欠落」
3年くらい前に息子が言った一言である。
「自己愛性パーソナリティ障害じゃないの?そんな人会社の中にたくさんいるし。」
息子は父親が特別じゃないよ。いつまで同じところをくるくるまわっているのかと私の態度を避難した。自分の人生なんだからと。いつまでも変わらない父と、そのことでいつまでも変わらない私にいら立つのだ。
息子から見ると、両親ともに同じ位置をくるくる回っているように見えている。
調べてみた。その中に特徴の一つとして「お互いさまの概念がない」と書いてあった。
少し欠けているのではなく、欠落である。最初からないのだ。
一瞬で今までの旦那様の行動に納得がいった。
最初から欠落している、備わっていないのなら、いままでの私の言動はまったく無意味だったことになるからだ。
私にとってはその後「お互いさまの概念がない」ことを前提に付き合えばいいことに気づき、対処が楽になった。
「私を喜ばせたり、どこか連れていこうとか思わないの?」
夫を抜きにして私だけが遊びにいったりすることに私は罪悪感を覚える。
私はすべて父親が決断してくれる家で育っている。それを当たり前だと思っていた。
ところが夫は何一つ指示を出さない。それが大きな出来事でもささいなできごとでもである。
夫の口から「どこか行こう」と言ってくれるのを私はただ待っていたのだ。
60歳を過ぎたころ
「私を喜ばせたり、どこかに連れていこうとか思わないの?」と聞いてみた。
私が言い終わる前に
「ない」と一言。
私はハッとした。私に対しての当てつけとか、いじわるからではない。
逆に「そうなんだ」と納得した。
そういう概念が本当にないんだと納得した。
「一人で行ってくればいいじゃない」と夫。
「うるさい、一人で行けよ!」ではなく、「行きたいところに行ってくればいいのに」と提案してくれているのだ。
夫婦でどこかに行くのが当たり前だと思っていたのは私のルールであって、夫にはそんなルールは最初からなかったのである。
私はとても気が楽になった。
私は自分で自分を追い込んでいたわけである。
以後、私は一人で気楽に動けるし、仕事場も構えた。
いまでは半別居を始めて4年目になる。
ただ、自由にはさせてもらえるけれども、責任も私が背負うことになる。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫も暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。
強迫神経症とアスペルガーの合わせ技だった
強迫神経症は夫本人も自覚がある。
しかし、アスペルガーは本人には自覚がない。
今さら診断されても年齢的にどうなるものでもないと私は勝手に思っている。
夫の強迫神経症は「加害妄想」
自分が誰かに危害を与えるのではと言う不安があるようだ。
それも「死」に直結している。
「自分は死にたくない」から来ているようだ。
究極だが、「誰かを殺したら死刑になって自分が死ぬ」それが怖いらしい。
だから、「誰かに危害を加えたのではないか。捕まって死刑にされるのでは」という不安が付きまとうらしい。
かつて、誰かに手を上げるとか、私を殴るとか子供に手を上げたことなど一度もないのである。
それなのに、「人に危害を加えたのでは」と悩むのは、私にはどうしても理解ができない。それが病気なのだと言われればうなづくしかないのである。
ただ、身内としては、「被害妄想」で「誰かにやられる前にやってしまえ」ではないだけ、安心感はある。
人様に危害を加えることはないからである。
キーワードは穴
特にマンホール。これはどう寄り添っても理解できない。
夫は我が子をどこかに遊びに連れていくとかいう発想もなかったし、孫ができても会いたいとかどこかに連れていくという発想もない。(ここはアスペルガーの行動だと思う)
それでも、たまには会わせておかなければと、私の提案で孫と公園に行ったことがあった。帰り道、夫の態度が少しおかしかった。
後で聞くと、「孫がマンホールの中に入った」という。目の前で孫は元気で遊んでいる。
私は、私の勝手な思い込みで「孫と遊ばせる」という提案をしたが、夫には苦痛になったのだ。だから孫とも遊ばないのだ。
その後、半年くらいは「孫は元気でいるよね?公園からいっしょに歩いてかえったよね?」と確認していた。
それ以来、年に一度くらい一緒に食事をということにして、その時の気分で夫不参加でもいいと思うことにした。
ただこれは世間の人には理解してもらえない部分だ。理由を言っても理解してもらうことは難しい。世間との板挟みがつらいところである。
私も何度かマンホールに入れられたようである。
いっしょに歩いていたときに私がマンホールの中に入ったらしい。
ただ私の場合は毎日私の確認ができる。
大変なのは、出かけた先で会った人がマンホールに入った場合である。
確認もできないし、かなり長期間引きずっている。
だから、旅行なども行かないのかと納得する。
私にとって、「幽霊が見える人」と「マンホールに人が吸い込まれた」は同じレベルだとしか理解ができない。
夫は「霊が見える人」が理解できないらしい。「霊なんかいるわけがない」と断言する。
私には全く霊感はないが、いま私の周りにはなぜか「霊感」がある人が集まってきた。
その人たちに旦那様のマンホールの話をすると「そんなわけないよ」と一笑される。
溝に落ちていた自転車
強迫神経症の旦那さんを持つ人と知り合った。
その旦那さんは仕事の帰り道に溝に落ちた自転車を見たそうだ。
翌日、その近くの家で葬儀があった。
自分が車ではねたために亡くなったのではないかと不安になったそうである。
翌日から車ではなく、歩いて会社にいくようになり、家に戻ると知人(奥さん)に何もなかったかを確認させるようになったそうである。
私の場合は、まだ口頭で質問されるだけで済んだが、知人は毎日、旦那さん帰宅と同時に、その溝まで確認することを何年も手伝ったらしい。
その後、旦那さんのご両親が亡くなられ、症状はピタッと止まったという。
不謹慎ではあるが、私も子どもの頃の何かが原因ではないかと思っていたので、我が夫も両親が亡くなれば変わるのではないかと少し期待もした。
しかし、我が夫は何も変わらなかった。
目の前まで引き寄せて突然シャッターを閉める
結婚して以来、毎日1~2時間、夫の話を聞いてあげることが習慣になっていた。
「そんなバカな」と思いながらも聞き続けてきた。
20年が過ぎたころ、「話を聞いてくれる人ができたからもいいいよ」と言われた。
行きつけの飲み屋さんに同じ状況の女の子がいるらしい。
私は共感できる人ができて本当によかったなと思ったし、私を開放してくれる優しさでもあると理解した。
しかし、これはアスペルガー的な行動である。
自分に理解を示す人ができたら、いままでの関係ある人をピシャっと断ち切る。
私は、話を聞くことをシャットアウトされただけだった。
仕事場で中国人の子と仲良くなったらしい。私は「友達ができたんだ。よかったな」とよろこんでいた。
毎日夜に電話していた。ところが突然「いまから●●君の連絡先を消すから君も消してくれ」と言っている。
私はぞっとした。
恐らく、相手は意味がわからないと思った。日本に来て、話をしてくれる人と出会って友達になったと思っていたのに、理由もなく突然の絶交宣言である。
こういうことは何件もあった。そして友達はいなくなった。
これは身内に対してでもある。私からみてもケンカしたわけでもないのに突然に閉ざす理由がわからない。
ただ、夫の中では何かあったのだと思う。ただ、あまりにも突然で相手は唖然とする。
この辺が当時は理解できなかったが、アスペルガーと言われると納得がいく。
強迫神経症とアスペルガーの合わせ技だと思うと理解ができる。
カサンドラ症候群にならないために
「なぜ、離婚しないの?」「なぜ、あなたがおかしくならなかったかが不思議」とよく言われる。
それは、私自身の考え方がちょっと普通でなかったことが大きい。(そこはまた次に)
40年前は人前では話せなかったことである。当時はいまのようにソフトな言い方はなく、健常人か鉄格子がある中にいる精神病患者かの二択だった。
20年前、ネットが使えるようになってからは、何度ホームページを作っただろう。しかし、どこまで書いていいのか、作っては削除の繰り返しをしていた。
「病気についてではなく、当人ではなく、その家族のためのフォローが欲しい」そう思っていた。
ブログが簡単にできるようになってからもそうであった。
先日私は65歳になり、残された人生を考えるようになった。そんな時に「夫はアスペルガー?」ということになった。
いまは、発進することもできるし、情報を受け取ることも簡単になった。
このブログで発信しながら、私まで疲弊しないように、夫とも暮らせるような道を探っていきたいと思っている。
44年目に確信した。旦那様はアスペルガーだったのだ。
知り合って44年、ちょっと変わった夫婦であることは自覚していた。
私自身もかなり変わっていることは自覚している。
この度、「夫はアスペルガーではないか?」というところに行きあたった。
それならすべてがストンと腑に落ちる気がした。
- アスペルガーではないかと指摘される
- 2005年 発達障害支援法施行 それ以前は
- 老後の生活設計が考えられない
- アスペルガーだと気づくまでは
- 旦那様はアスペルガーだったのだ
- 強迫神経症
- お互いさまの概念がない
アスペルガーではないかと指摘される
発達障害とかアスペルガーとか、私たちの世代にはなかった言葉である。
周りの人たちからは「自分勝手、変わり者」の一言でスルーしてきた。
「???」と思うことは山ほどあった。世間と夫の間に入り、悩んだり、怒ったり、泣いたりした44年間だった。
アスペルガーの子どもを持つ従姉妹から指摘された。
いつもはっきりものを言ってくれる従姉妹と電話をしていたときに
「旦那さんはアスペルガー。もう変わらないんだから、あなたが好きなように生きて楽しむことよ。そうでないとあなたが潰れるよ」と言われた。
アスペルガー症候群は発達障がいの一つで、社会性・コミュニケーション・想像力・共感性・イメージすることの障がい、こだわりの強さ、感覚の過敏などを特徴とする、自閉症スペクトラム障がいのうち、知能や言語の遅れがないものをいいます。人間誰しも自閉症的な部分を多かれ少なかれ持っているのが普通で、程度の差だけが問題といえましょう。それゆえ「スペクトラム」障がいなのです。
未診断ではあるが、夫にドンピシャ当てはまる。
私が夫のためによかれとしてやってきたことは、全く無駄骨だったことになる。私の44年間は何だったのかとショックも受けた。
もっと早く知っていれば、回り道することなく、向き合うこともできたのにと思う。
2005年 発達障害支援法施行 それ以前は
発達障害の診断が日本で行われるようになったのは1980年代、発達障害支援法が施行されたのは、2005年である。
いまだったら夫も子供のころから療育を受けることもできたであろう。
しかし、それ以前は「概念」すらなかった。
つまり、私もその概念がなく、「少し変わった人」だと思っていた。
老後の生活設計が考えられない
あっと言う間に65歳になってしまった。
夫婦ともに国民年金である。しかも、夫の病気や借金で未納の期間もあるために年金はないに等しい。
50歳で借金を終わらせ、年金を遡って納付する予定にしていた。
ところが、私に乳がんが見つかり、その後3回も手術をした。
まだ働いている私たちなので、年金は70歳まではもらわないことを決め繰下げ受給にした。(私の独断で)
気が付けば65歳になっていた。
「死ぬまで働こうね」を合言葉に頑張ってきた。(頑張ったのは私だけだと気づく。夫は何も考えていない)
どうやって生活していくかなど、相談をするが答えは帰ってこない。(決断できないアスペルガーの特性)
アスペルガーだと気づくまでは
今まで何度となく問題を起こし繰り返してきた。でもまだ何とかなると思っていた。言えば分かってくれると思っていた。
60歳を過ぎて、夫の仕事は経費を引くとほとんど残らないようになった。
私は「保育園に行かせている」と思うことにした。
仕事を辞めて、お酒の量が増えたり、パチンコ代が掛かるよりは仕事に行ってもらうほうがいいと判断したからだ。
それと私の仕事の邪魔をされないで済むからだ。
旦那様はアスペルガーだったのだ
アスペルガー夫をサポートし、疲弊していく妻が体調を崩すことをカサンドラと言うようだ。
それも初めて知った言葉だった。
今回、私が体調を崩したことで気が付いた。
夫が4ヶ月仕事が止まっている。(全く気にする様子はない)
私もコロナ禍で仕事が減り、なんとか販路拡大できないかと頑張っている。
私の仕事場に「遊びに来た」とフラッと来る。
いままでなら、優しい言葉で言っていた私だが、今回は直球で言った。
「私の仕事の邪魔になるから来ないで欲しい」
「あなたが来ると気分が悪くなる。私は仕事を優先したいから帰って欲しい」
44年目にして初めて強い口調ではっきりと言った。
本当に体調が悪くなったからである。私が仕事を止めるわけにはいかない。
しかし、夫は4ヶ月仕事が切れても平気である。
二人とも65歳、もう後が少ない。悠長にやっている場合ではない。
崖っぷちに立っていてもまだ動こうとしない夫を見て、普通ではないと思った。
その後の「夫はアスペルガー」という話になったのである。
空気が読めない。はっきりと言わないと理解できないのだ。
夫に対して無駄なことは一切せず、ピンポイントで伝えていくことを決めた。
夫に決断させることも、相談することもできないことも理解した。
それが私自身が疲弊せずに生きていける残された手段だと思っている。
しかし、65歳の私が一人て背負っていくには重すぎる夫である。
強迫神経症
もともと夫は若い頃「強迫神経症」と診断されている。
私は「治せる」と確信し、「治してあげたい」と結婚し、寄り添ってきたつもりだ。
しかし、ここ4~5年、私が寄り添ったことがよくなかったのではないか、寄り添った結果が夫をダメ夫にしたのではないかと思い始めていた。
少し距離を置き、夫が自立できるように半別居も始めた。
私の仕事上、仕事場に泊まることが多くなった。半別居を始めて5年になる。
別居前よりは、夫は自分で動くことができるようになってきた。
ところが、それでもどうもピントがずれているような気がし始めていた。
そこに初耳の「アスペルガー」であった。
「強迫神経症」はいまだに私は理解できていないが、「アスペルガー」と言われると納得もする。
「そうなんだ」とちょっとショックも受けたが、逆にいままで誰に言っても「そんなことはない」とか「性格よ」とか「どこの旦那もいっしょ」とかで流されていた。
従姉妹からハッキリ言われて「分かってくれる人がいるんだ」とちょっと安心もした。
お互いさまの概念がない
キーワードは、「お互いさまの概念がない」であった。
これは目からうろこであった。
概念がそもそもないところにいくら言っても無駄だと思い知らされた。
そこから少し変わることができた私がいる。
65歳、いまさらではあるが、残された人生を私が疲弊せずに夫とも暮らしていける。そんな道を探っていきたいと思う。